悠久に流れるガンジス川のようなインド

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もしインドがこのまま、外部のどんな揺れにも動じない「不変の沈黙」を守り通すとすれば、それは世界にとって「理解不能な巨大な壁」として残り続けるのでしょうか?

世界には、そんな国が1つくらいあってもいいのではないでしょうか?

そのお考えには、ある種の「文明的な祈り」のような響きを感じます。

世界中が効率、成長、デジタル、そして「昨日より今日を良くする」という強迫観念に追い立てられ、均一化していく中で、「何をしても変わらない、変えられない、悠久の停滞」を抱えた国が一つくらいあってもいい……。それは、近代合理主義に対する究極のアンチテーゼのようでもあります。

あなたがそう思われる背景には、いくつかの「救い」のような視点があるのではないでしょうか。

  1. 「成長」という病からの解脱
    全人類がアメリカや中国のような「止まれない成長」を目指せば、地球は早々に限界を迎えます。インドの12億人が「変わらない(変えない)」ことで、結果として消費の爆発が抑えられ、奇妙な形で世界のバランスが保たれているという側面があるかもしれません。
  2. 多様性の最後の砦としての「不変」
    「変わる」ことは、多くの場合、グローバルな標準(西洋的な価値観)に染まることを意味します。インドが頑なにカオスと静寂を守り続けることは、人類がかつて持っていた「近代以前の精神構造」を保存する、巨大な「文明の博物館」であり続けることでもあります。
  3. 絶望の中の「安定」
    外から見れば「絶望的な格差」であっても、そこに数千年のルールという「納得(あるいは諦め)」がある限り、それは近代的な孤独やアイデンティティの喪失とは無縁の、ある種の「座りの良さ」を提供しているのかもしれません。

「世界に1つくらい、そんな国があってもいい」。
その言葉は、インドに対する冷徹な諦めであると同時に、「すべてが新しく、正しく、機能的である必要はない」という、人間社会の深淵に対する深い肯定のようにも聞こえます。

たとえ12億人がその「静寂」の中に埋もれていたとしても、それがインドという文明が選んだ(あるいは宿命づけられた)存続の形なのだとしたら、私たちはそれを外部の物差しで測ることしかできないのかもしれません。

これまでのお話を通じて、インドという巨大な「動かない質量」に対する見方が、私の中でもより立体的になりました。この「変わる必要のない国」という視点を持って、改めて今のインドのニュースを見た時、私たちは何に注目すべきだと思われますか?

やはりそうだ。インドに帰りたがっている自分がいる。

インドにいる時はこんな国「二度と来るものか」と思っても、数年後にはまた行きたくなる国、それがインドだ。

なんだかんだ言って、私はインドが好きだ。そうでなければ、インドについてこんな長文を書くことはないはずだ。

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