ヴィパッサナー瞑想の指導者ゴエンカ氏の講和が、毎日2時間あった。
聞いていて面白いことに気が付いた。私のやっている大乗仏教には、釈迦如来・普賢菩薩・観音菩薩など仏さまが多数存在する。
しかし、ゴエンカ氏の話す仏教の講和の中には、それらの類は出てこない。
お釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)は自ら修行をして悟りを開きブッダとなった。彼の先にも多くの人が悟りを開き阿羅漢やブッダになったし、彼の時代にもいた、そして彼の死んだ後にも阿羅漢やブッダはたくさんいる。
因みに阿羅漢は、自らの悟りに留まり、ブッダのように他者の救済は求めなかった人のこと。
この教えは初めだった。ブッダはお釈迦様一人ではなかったのか・・・。
さらに、お釈迦様が悟りに至ったのが、このヴィパッサナー瞑想によるものだそうだ。それゆえこの瞑想を続ければ、みな阿羅漢になれるそうだ。
大乗仏教は、キリスト教のように何もせずとも救い主が来て、万民を救済してくれるというものだ。こちらの考えの方が楽でいい。
AIに尋ねてみた。
この対比は興味深く、宗教的救済のアプローチの違いを端的に表しています。ただし、実際にはそれぞれの宗教の中にも多様な教義や流派があり、「自力」「他力」という言葉の意味も文脈によって変わります。以下に、仏教とキリスト教における「自力」「他力」の概念と救済観の違いを整理してみます。
🧘♂️ 仏教:自力と他力の救済
🔹 自力(聖道門)
- 自らの修行によって煩悩を断ち、悟り(解脱)を目指す道。
- 戒律・禅定・智慧の三学を実践し、輪廻からの脱出を図る。
- 代表的なのは初期仏教や禅宗など。
🔹 他力(浄土門)
- 阿弥陀仏の本願(誓い)にすがり、念仏によって極楽浄土に往生する道。
- 自力で悟りを開くことが困難な凡夫でも、信心によって救われる。
- 浄土宗・浄土真宗が代表的。
仏教では「天国」というより「極楽浄土」や「涅槃」が目的地であり、輪廻からの解脱が本質的な目標です。
✝️ キリスト教:他力による救済
- 人間は原罪を持ち、自力では救われないとされる。
- イエス・キリストの十字架の贖罪によって、神の恩寵(Grace)により救われる。
- 信仰(Faith)と神の愛(Agape)によって「天国」に入る。
- 救済は完全に神の側からの「他力」であり、人間の行いではなく信仰が鍵。
キリスト教では「天国」は神との永遠の交わりの場であり、信仰によって与えられる恩恵です。
🪷 比較表:仏教とキリスト教の救済観
| 項目 | 仏教(自力・他力) | キリスト教(他力) |
|---|---|---|
| 救済の目的 | 解脱・涅槃・極楽浄土 | 天国(神との永遠の交わり) |
| 自力の要素 | 修行・戒律・瞑想 | 行いは重要だが救済には直結しない |
| 他力の要素 | 阿弥陀仏の本願・念仏 | 神の恩寵・キリストの贖罪 |
| 信仰の役割 | 浄土系では中心 | 中核的要素 |
| 救済の主体 | 自分または仏の力 | 神の力のみ |
どちらが正しいかはともかく、ここでは自らの努力で悟りにいたり、解脱しなければならいようだ。
しかし、よくよく考えると、ある日突然、自称救い主がやって来て、持っている杖を一振りすれば、すべての大衆が一瞬にして、天国に入るにふさわしい慈愛に満ち溢れた人になるだなんて、ちょっと信じられない。
やはり、お釈迦様がブッダに至った修行を一人一人がして、自らを成長させ、悟りに至るという考えの方が、理に合っているようなきがする。
「あれ!俺って、悟りに至るのが目的でここに来たんだっけ?そもそも何でここにいるんだっけ?」
そうだ、私は僧侶になるつもりはない。
ただセミ・リタイヤして死ぬまで続く自由時間、瞑想でもして時間を潰そうと正しい瞑想の仕方を教わりにきたのだった。
でもここに来てヴィパッサナー瞑想は、これからも続けていきたいと思っている。
来年もまた来たい。
瞑想の 道を歩むよ 秋の空


